「ユーハイム」の激動の歴史~日本にバウムクーヘンを広めたドイツ人捕虜~

バウムクーヘンは、デパ地下やスーパー、コンビニなど、どこでも見かける身近なお菓子。その本場がドイツだというのも、日本では有名な話ですよね。

バウムクーヘン発祥の地については諸説ありますが、最初にバウムクーヘンが焼かれたという記録が残っているのが、ドイツ・ザクセン=アンハルト州の小さな町、ザルツヴェーデルです。

ドイツ北東部で生まれたといわれるドイツの伝統菓子がなぜ、日本全国で食べられるようになったのでしょうか。

その答えは、デパ地下でおなじみの老舗洋菓子店「ユーハイム」にありました。ドイツ人菓子職人カール・ユーハイムの激動の人生、と「ユーハイム」の歴史を紐解いてみましょう。

バウムクーヘンは本場ドイツでは特別なお菓子

バウムクーヘンの本場がドイツであると知っている方は、「ドイツでは、さぞあちこちでバウムクーヘンが買えるのだろう」と思うかもしれません。しかし、実はドイツでは日本に比べ、圧倒的にバウムクーヘンを見かける機会が少ないのです

日本で売られているバウムクーヘンのなかには本来の「バウムクーヘン」の定義には当てはまらないものも多いですが、その話は一旦置いておきます。

バウムクーヘンの定義について気になる方は、こちらの記事をどうぞ。

きっと「バウムクーヘン」が食べたくなる6つのトリビア ~はじまりはドイツ人捕虜~

本場ドイツでバウムクーヘンをあまり見かけない理由、それはバウムクーヘンが高度な職人技と専用の設備を要する特別なお菓子だから誰でもどこでも作れるものではないので、ドイツではバウムクーヘン専門店やごく一部のコンディトライ(スイーツショップ)でしかバウムクーヘンを扱っていないのです

では、そんな本場ドイツでも希少なバウムクーヘンがなぜこれほどまでに日本で広まったのか、気になりませんか?

それを紐解くカギは「ユーハイム」にありました。

日本にバウムクーヘンを広めた立役者「ユーハイム」


撮影者は不明。Pasternがトリミング。, Public domain, via Wikimedia Commons

全国のデパ地下でおなじみの「ユーハイム」は、1909年に創業した老舗洋菓子店。日本人なら一度は「ユーハイム」のバウムクーヘンを食べたことがあるという人は多いでしょう。

この「ユーハイム」こそ、日本にバウムクーヘンを広めた立役者なのです。現在、本店は神戸にありますが、その歴史はちょっと複雑。

「ユーハイム」は、創業者カール・ユーハイムの名にちなんでいます

ドイツ人菓子職人のカール・ユーハイムは中国・青島でバウムクーヘンが評判の喫茶店を営んでいました。なぜ彼が青島にいたかというと、当時青島はドイツが占領しており、ドイツ人街ができていたからです。

ところが第一次世界大戦下で青島は日本軍の占領下に…1915年、カール・ユーハイムは、身重の妻エリーゼを青島に残したまま、捕虜として日本に連れてこられます

その後1919年、文化交流の一環として、広島県の物産陳列館で捕虜の作った物品を展示・販売する催しが開かれました。現在の通称「原爆ドーム」です。

捕虜として広島に連行されていたカール・ユーハイムは、ここにバウムクーヘンを出品しました。そう、日本に初めて紹介されたバウムクーヘンは、広島でドイツ人捕虜が焼いたものだったのです

ドイツ人捕虜による作品展覧会には蒸気機関車や船の模型、写真、油絵、革製品などさまざまなものが出品されましたが、最も人気があったのがお菓子だったそうです。

関東大震災で被災し神戸へ

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日本人は、カール・ユーハイムが作った見たこともないお菓子をたいそう喜びました。

「自分のお菓子が受け入れられた」と感じたカール・ユーハイムは、青島でコレラが流行っていたこともあり日本に残ることを選び、妻と子どもを日本に呼び寄せました

その後ユーハイムは、銀座の喫茶店での勤務を経て、外国人が多かった横浜で店を開業。借金をしてやっと手に入れた店は、カール・ユーハイムらの頑張りでまもなく人気を博すようになりました。

ところが1923年9月、ユーハイム一家を悲劇が襲います。

関東大震災で店は倒壊。カール・ユーハイムは大けがを負いましたが、幸い妻と子どもたちは無事でした。ユーハイム一家は廃墟と化した横浜から知人がいた神戸へと移り、1923年に神戸1号店を開きました

神戸での無一文からの再スタート。当時は近くの百貨店でも洋菓子を売り出すようになり、売上が一気に落ちることもありました。それでも、妻エリーゼの気丈さに励まされ、カール・ユーハイムはジャマイカやオーストラリアからも材料を取り寄せながら、一流の原料を使ったお菓子作りを続けます。

当時から神戸は国際的な貿易都市で、46ヵ国の外国人が暮らしていたこともあり、「ユーハイム」は神戸で大きく育っていきます。現在も「洋菓子の街」として知られる神戸ですが、そこにはこのような背景があったのです。

第一次世界大戦と関東大震災を経て、神戸で軌道に乗った「ユーハイム」でしたが、受難はここで終わりませんでした。

第二次世界大戦終戦前日に息を引き取る

663highland, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻を皮切りに、第二次世界大戦意気が勃発します。参戦した日本では、お菓子作りに材料を回す余裕などなく、カール・ユーハイムは兵士のためのパンを焼かねばならなくなり、「ユーハイム」で働いていた日本人職人たちも戦争にとられてしまいました。

幼い頃からお菓子のマイスターになることを目指し、お菓子作りに情熱を注いできたカール・ユーハイム。「パンよりお菓子作りがしたい」と思いながらも、お菓子は平和なときにしか作れないことを実感し、意気消沈します

そして1945年6月、神戸の街に大量の焼夷弾が落とされ、「ユーハイム」の店も焼け落ちてしまいました

第二次世界大戦開戦が近づく頃から徐々に心身を病んでいたカール・ユーハイムは、店を再建することもできないまま、1945年8月14日、六甲山のホテルで息を引き取ります

くしくも第二次世界大戦終戦の前日のこと。

もちろんカール・ユーハイムは明日戦争が終わるなんて知りませんでしたが、彼を看取った妻エリーゼに「私は死にます……けれど、平和はすぐ来ます」という言葉を残し、永遠の眠りについたといいます。

創業以来変わらないお菓子作りの精神

663highland, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

その後、大戦を生き抜いた愛弟子たちが、カール・ユーハイムの志を継いで、資金を持ち寄り「ユーハイム」を再興。1953年には、一時ドイツに強制送還されていたカール・ユーハイムの妻エリーゼを再び日本に呼び寄せました

「ユーハイム」では、カール・ユーハイムが青島で独立開業した1909年を創業年と位置づけています。

それから100年以上。さまざまな困難を経ながらも、「ユーハイム」が大切にしているものは変わっていません。代名詞ともいえるバウムクーヘンのレシピも創業以来変わらず、基本のレシピは基本は卵、小麦粉、砂糖、バターの4種類

1969年には「純正自然」のお菓子作りを目指す社内ガイドラインを作成し、余計なもの(添加物)は極力入れずに、自然なおいしさを大切にする、昔ながらのドイツ菓子の考え方にのっとったお菓子作りを続けています。

お菓子は平和の象徴

驚くほど波乱に満ちた、カール・ユーハイムの人生と「ユーハイム」の歴史。子どもの頃からお菓子のマイスターを目指し、お菓子に情熱を注ぎ続けたカール・ユーハイムですが、戦争の荒波に揉まれるなか、大好きなお菓子作りができない時期が幾度となくありました。

カール・ユーハイム自身も感じていたように、お菓子は平和なときにしか作れないもの。現代の日本で生きる私たちにとって、お菓子はそばにあって当たり前の存在ですが、「職人がお菓子を作りたくても作れない」「人々がお菓子を食べたくても食べられない」時代も確かにあったのです

そういう意味では、お菓子とは平和の象徴。カール・ユーハイムの人生と「ユーハイム」の歴史に思いを馳せると、これから食べるバウムクーヘンがますますおいしく、ありがたく感じられますね。

参照:
「バウムクーヘンとヒロシマ」くもん出版・巣山ひろみ著

小学生向けの学習書ですが、大人が読んでも感動間違いなし。