ポツダム会談の舞台、世界遺産「ツェツィーリエンホーフ宮殿」を訪ねて

東ドイツの都市ポツダムといえば、世界遺産に登録されているサンスーシ宮殿が有名。

それに加えて「ポツダム宣言」を思い出す人も多いことでしょう。

日本にとっては第二次世界大戦終結の代名詞ともいえるポツダム宣言は、1945年7月17日から8月2日にかけて、ドイツのポツダムで行われた「ポツダム会談」の会期中に出されたものです。

その開催地となったのが、ポツダムの郊外にたたずむツェツィーリエンホーフ宮殿。現在は、歴史が動いた瞬間を伝える博物館として、さらには世界遺産として、世界各国からの訪問者を迎え入れています。

ポツダム宣言とは

ポツダム宣言とは、第二次世界大戦下の1945年7月、アメリカ、イギリス、中国の3ヵ国の共同声明として、日本に対して無条件降伏を求めた宣言です

その内容が一方的で、連合国側に有利な内容であったため、日本政府はすぐにはポツダム宣言を受け入れようとはしませんでした。ところが、1945年8月に広島と長崎に立て続けに原子爆弾が投下され、未曽有の犠牲者が出たことで、ポツダム宣言の受諾を決定。

日本政府は8月14月にポツダム宣言を受諾し、8月15日にはラジオの玉音放送で日本の降伏が国民に伝えられ、9月2日にポツダム宣言が東京湾上の米戦艦ミズーリ号上で調印されました。

こうして、1939年に始まった長い大戦は、日本の敗戦により幕を閉じたのです。

歴史が動いたポツダム会談

この歴史的なポツダム宣言のもととなったのが、東ドイツの都市ポツダムで開かれたポツダム会談です

1945年7月17日から8月2日にかけて、アメリカ大統領トルーマン、イギリス首相チャーチル(途中でアトリーに交代)、ソ連書記長スターリンが集まり、戦後処理についての話し合いが行われました

これらの3ヵ国の名前を聞いて、さきほどポツダム宣言を出した3ヵ国とは顔ぶれが違うことに気づいた人もいるかもしれません。

ポツダム宣言はアメリカ主導で作成されたもので、それにイギリスが一部修正を加え、会談には参加しなかった中国が同意して発表されたもの。

当時はまだ日ソ中立条約が有効だったため、ソ連は当初ポツダム宣言に加わっていませんでした。その後ソ連は8月6日に対日参戦し、8月8日にポツダム宣言に署名しています。

日本にとっては、敗戦が決まったポツダム宣言の受諾が大きな出来事でしたが、ポツダム会談自体は戦後の秩序を再構築するための場で、ドイツとポーランドの国境線やドイツの分割占領、ドイツからの賠償取立てなど、多岐にわたる話し合いがなされました

これほど重大なポツダム会談が、なぜポツダムで開かれたのか。

当初はベルリンでの開催が予定されていましたが、戦争の被害が大きかったため、近郊のポツダムで開催されることになりました。ポツダムも中心部は爆撃を受けていたものの、郊外に位置する宮殿はほぼ無傷だったからです。

世界遺産・ツェツィーリエンホーフ宮殿

アメリカ、イギリス、ソ連の首脳が集まってポツダム会談が開かれた場所が、ポツダム郊外にあるツェツィーリエンホーフ宮殿

ポツダムの観光スポットといえば、世界遺産のサンスーシ宮殿が有名ですが、このツェツィーリエンホーフ宮殿も「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の一部として、世界遺産に登録されています

その外観をひと目見ただけで、ドイツにあるほかの多くの宮殿とはまったく異なる印象を受けるのではないでしょうか。

ツェツィーリエンホーフ宮殿は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の長男で、最後のドイツ皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンとその家族のための居城として建てられたもの

当時流行していたイギリス別荘様式を採り入れて、1913年に建設が始まり、1917年に完成しました。「ツェツィーリエンホーフ」という名前は、皇太子妃のツェツィーリアにちなんで付けられたものです。

部屋数は170室以上。のちに国有化された後は、上流階級が集まる社交場となりました。

ポツダム会談の舞台になった宮殿

ポツダム会談の開催地に決まってから、ツェツィーリエンホーフ宮殿は3ヵ国の首脳を迎えるために改装が加えられました。

皇太子の居城だったころのオリジナルの内装が残っている部屋もありますが、各国代表団の高い要求に応えるべく、室内はシルクの壁紙などで飾られています。

3ヵ国の代表団にはそれぞれ別の控室があてがわれ、代表団は外交儀礼上からそれぞれ別の入口を使ってツェツィーリエンホーフ宮殿に入りました

警戒心の強かったソ連のスターリンは、モスクワから、1万5000人もの兵士の警備を伴って専用列車でベルリンに到着したといいます。

中庭に見られる赤い星は、スターリンの権力を誇示するためのシンボル。ポツダム会談終了後は、会談開催の記念として残されています。

重厚感たっぷりの議場

宮殿内では、ポツダム会談が行われた当時のままに保存された部屋が見学できます。

実際に3ヵ国の首脳による話し合いが行われた会議場は、バロック様式の大広間。オーク材は以前ドイツ領だったポーランドのダンツィヒ(現グダンスク)から送られ、丸テーブルはモスクワで制作されたものです。

卓上には、アメリカ、イギリス、ソ連の国旗が置かれ、室内にある会談開催中の写真とともにこの光景を眺めると、今にも会談風景が目の前に浮かんできそうなほどの臨場感。

ポツダム会談の会期中は、アメリカ大統領トルーマンが議長役を務め、各国首脳の隣には、それぞれ通訳と外務大臣が座っていたといいます。

ここでドイツの非武装化、非ナチス化、民主化、戦犯の追放、政治・経済の立て直し、ドイツからの賠償取り立てや、ポーランドとの国境問題などについての話し合いが行われました。特に紛糾したのが、ドイツ・ポーランド間の国境画定と、ドイツからの取り立てる賠償額についてでした。

最終的に、8月2日にドイツの4国分割占領などを盛り込んだポツダム協定を締結して、会談は終了を迎えます

戦後のドイツの方向性が決められたポツダム会談。その舞台を実際に目で見て、その雰囲気を感じることは、豪華絢爛な宮殿を訪ねるのとはまた違った特別な体験です。

ツェツィーリエンホーフ宮殿へのアクセス

ツェツィーリエンホーフは、サンスーシ宮殿をはじめとするポツダムのほかの多くの宮殿とは離れた場所にあります。

ポツダム中央駅からのアクセスは、92・96番のトラムでEinheit/West下車。ここでHöhenstr.行きの603番バスに乗り換え、Schloss Cecilienhofで下車。バス停の目の前に宮殿への入口があります。

なお、ツェツィーリエンホーフ宮殿前は道幅が狭く一方通行となっているため、帰りはSchloss Cecilienhofのバス停で待っていても、市内中心部へ向かうバスは通りません。

ツェツィーリエンホーフ宮殿の見学後は、さらに進行方向に300メートルほど進んだところにある終点のHöhenstr.でバスを待ちましょう。

おわりに

サンスーシ宮殿に比べると知名度は低いものの、ツェツィーリエンホーフ宮殿には、歴史が動いた場所ならではの凄みとドラマティックな雰囲気があります。

ポツダムにある宮殿の共通券「sanssouci+」を購入すれば、サンスーシ宮殿やツェツィーリエンホーフ宮殿を含む13の宮殿にすべて入場できてお得。

ポツダムを訪れたら、ぜひポツダム会談の舞台となった世界遺産・ツェツィーリエンホーフ宮殿にも足を運んでみませんか。