2000年の歴史をもつ、ドイツ・ロマンティック街道沿いの都市アウクスブルク。
時をさかのぼること紀元前15年、ローマ皇帝アウグストゥスの名によって町が建設されたため、この名が付きました。
フッガー家やヴェルザー家といった豪商や銀行家が台頭し、アウクスブルクは一時「ヨーロッパではほかに並ぶものがない」といわれるほどの栄華を誇りました。
そんなアウクスブルクの富を象徴する建造物のひとつが、町の中心部に誇らしげに建つ市庁舎。とりわけ、「黄金の間」と呼ばれる金ピカに輝くホールは必見です。
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「ドイツ・ルネッサンスの最高傑作」と称される市庁舎
アウクスブルクの市庁舎は、ドイツの市庁舎としては珍しいルネッサンス様式。
アウクスブルクの建築家エリアス・ホルの設計で、1615~1620年にかけて建設されたこの市庁舎は、「ドイツ・ルネッサンスの最高傑作」とも称される重要な建物です。
白壁のファサードの上部には、帝国都市だったことを示す双頭の鷲が描かれ、最上部にはアウクスブルクの紋章にも使われている松ぼっくりが載っています。
松ぼっくりはもともとローマ人がよく使っていたシンボルで、市庁舎のファサードは、アウクスブルクの2000年の歴史とかつての帝国都市の誇りを象徴しているといえるでしょう。
豪華さに息を吞む「黄金の間」
アウクスブルクにやってきたら絶対に見逃せないのが、市庁舎の3階(日本式4階)にある「黄金の間」。
広さ500平米のホールに一歩足を踏み入れると、黄金色の装飾と壮麗なフレスコ画に覆われた天井の豪華さに圧倒されます。
あたり一面、金、金、金・・・「贅を尽くした」とは、まさにこのこと。この黄金の間には、実に2.7キロもの金箔が使われているのだそうです。
2.7キロの金を実際に見たことがあるという人はなかなかいないでしょう。ここに来れば、一生分の金の光線が浴びられるのかもしれません。
帝国会議の議場として建造
市庁舎は、日本でいえば市役所。なぜ役所にこれほど豪華な部屋ができたのか、不思議ではありませんか?
それは、この黄金の間は帝国議会を開くために造られたからです。豪華なホールによって、アウクスブルクは議会の参加者にその経済力を見せつけたのですね。
神聖ローマ帝国の議会メンバーを収容するには、300人程度が座れる議場が必要でした。広々としたスペースを設けるため、黄金の間では空間内に天井を支えるための柱が配置されていません。
これは当時としては画期的なことで、上階から引っ張り上げることで、部屋の中央に柱を設けることなく重い天井を支えられるようにしたのです。
ストーリーが隠された天井画
黄金の間では、その名の通り黄金の装飾に加え、天井の華やかなフレスコ画が目を引きます。もちろん、これらのフレスコ画にはそれぞれ意味が。
中央に配された大きな天井画では、本をもつ知恵の女王を哲学者や法学者たちが引っ張る様子が描かれています。
この絵には為政者のモラルを説く意味合いがあり、「国の指導者たるものは、腕力ではなく知恵でもって制せ」と伝えているのです。
その一方で、黄金の間の天井画には、市民の心構えを説くものもあります。
ハンマーをもった女性は勤労を、黒い衣をまとって十字架をもつ女性は信仰、赤いケープを身に着け本をもつ女性は勉学を表しており、統治される側である市民の義務もここで表現されているのです。
一枚一枚のフレスコ画の意味を知りながら見れば、黄金の間がさらに楽しめるはず。
第2次世界大戦の傷を乗り越えて
アウクスブルクは第2次世界大戦による被害が大きかった都市のひとつで、町の約80パーセントが壊滅状態になりました。市庁舎も外壁を残して崩れ落ち、現在の姿は戦後30年以上をかけて再建されたものです。
当然、黄金の間もそのときに再建されたもの。再建時にこだわったことは、できるだけオリジナルの素材を使うことでした。
黄金の間の壁に描かれたフレスコ画を見ると、部分的にオリジナルの古い絵が残っていることがわかります。
市庁舎の再建が始まったのは1950年代。1985年のアウクスブルク生誕2000年祭に間に合うように工事が進められ、1984年にかつての美しい姿を取り戻したのです。
おわりに
かつての帝国都市としての富と誇りを今に伝えるアウクスブルク市庁舎の「黄金の間」。この空間を紐解けば、アウクスブルクの壮大なる歴史が肌で感じられることでしょう。